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あの本に書かれていた、彼女に与えられた魔法だ。これから先を変えるための時間の猶予、彼女が関わることによって生じる、あるはずのない変化さえも許すという宣言――絶望の淵で死を迎えた女性に、これ以上のギフトがあろうか。
聞こう。環境に恵まれていたのはどちらだ。
それは、俺だろうね。
ではもうひとつ。音楽の才とやらがあるとして、それに恵まれているのはどちらだ。
考えるべくもない。アシュレイ・グレイだ。
君は楽院を首席で卒業したと聞いたが。
ああ、飛び級もしたよ。だが、俺は旅に出る前に予備期間が必要だった。
そして、ピアノだ。アッシュは、旅に出てからピアノに転向した。
拾ったのは二年半後の夏で多分十八歳。引っぱりだしたのは翌年の冬、これで十九歳。今あいつは二十一だ。……二年で、あれだ。俺は飛び級したと言っても四年かかった。予備期間は楽院の高等課程を履修するよう勧められた。
高等過程?
教導免許、アンサンブル、オーケストラ、そのあたり。
吟遊は中等課程修了でいいんだ。旅の最中で得る経験を上位過程に換える。共通過程、予備課程、中等過程、成人後の高等過程。俺は、さっさと楽都を出たかったんだけどね。
大概のことを適度に知っているから、よく世話になっている。
楽院を出た頃の台詞を覚えている。
「おれはおれの声でおれの歌をうたう」
徒手空拳で世界を渡れ、と言ったあの人の言葉のままに。スイの音とは違う、劣ったものではあるけれど。
眼裏に映るのはスイランの。
「手を」
「ついてきてくれるんだろう?」
「また追いかけてきてくれよ」
断言の強さで放たれる、だけど波立つ海の揺らめきを湛えた言葉。
その映像が、ピアノの小瓶に変わる。そのまま炎の中ですれ違った子どもの涙に変わる。そして。銅貨一枚を握った左手を出さなかったから、差し伸べられた右手。
目を開いて、今の自分の掌を見つめる。何も食べられなくて痩せぎすだった当時とは異なり、スイランとともにいた年月が手を強い力のあるものに変えていた。旅する人であっても、衣食を確実に手にすべく動いていたスイランとの日々は水が注がれるようだった。
アッシュレイ・グレイは歩き続ける。
畑を耕し灰を撒く、旅をしない人々の姿を心に留める春を行く。
歌は何の外的なものの力も借りずに「うたわれるもの」である。
応えよう。ギルベリアの町が描く高さある円陣はその為の機構。
石畳の道が幾重もの円をしるし、家々と雪の逃げ場が紋様を描き、階段が各魔術円の階層をつなぐパスとなり、いと高き黒塔は砲台になる。
真っ白な雪中で純粋なる黒と声を上げる。
蒐集し収束させ、仮にも魔術師の都なのだというように。
収束魔術は矛先を天に向けて、これまで溜めこんでいた総ての魔力を発射した。
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