言葉を覚えてから――
文字を知ってから――
いくつかの節目がすぎて。ヴァイオリンを見つめている青年とともに歩くようになってかもそれなりにながい時が過ぎた。
いくども髪を切った。靴を何足も履きつぶした。
「ランさん」
旅の連れのヴァイオリニストは呼びかけるとすぐに手を止めてくれる。とすん、とささやかな行動が胸に落ちてくる。いつもこの人はそうだった。ほしいときに顔をあげればそこに掌が、ある。
「どうかした、アッシュ」
南窓を頭に、チェストを挟んで二台並んだ宿の寝台に腰かけて向かい合う。
足許にはいつでも旅立てるようにまとめた荷物があり、片づけられた部屋の中で箱から出ているのは彼の楽器だけだった。
「お昼ですね」
「そうだね」
「ヴァイオリンの調子もいいんですね」
「そうだね」
「楽譜、まだ持っています?」
ああ、とランが息をもらすと不意にぼててててぇ、と廊下の方から奇怪な音がして、べぼっ、とドアにぶつかった。
その扉が開く前に、お別れです、と口にした。
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