…………………………
【旅人の旋律、は】
――すり抜けていく。
指間に水搔きあったらいい。あるいは骨張っていて、その節が留め具のように作用してくれていたらいい。
すっと離れていく。気づいたときにはもう手遅れ。背中の行く場所もわからない。たった今何を手にしていたのかさえもどこかに行って――失った、という感覚だけがいつまでも指に残っている。
しまいに指の在処が不確かになってきた。弦を抑えられているか、フロッグに添えた手が確かにあるのかを調べたくなる。視線を楽器に向けろと本能が囁き、理性がその意を駆逐する。
手元を見てしまえば途端に指がもつれるだろう。濃やかなボウイングは体が覚えていることで、意識の作用するところではない。確かめるべくもないのだ。
音が鳴っている。鳴り続けている。
この響きがやまないということは、この指が確かに音楽を掴んで離していないということ。
スイランは拍と拍を繋ぎながら息を吐いた。
左手は細工師のハンマーの早さ、右は商人の言葉の流れで動く。細々と刻んで砕き、スイランを通してひとまとめにした流麗な旋律が奏でられる。
手を離した、
手を離した、焼けていく石畳の上にブーツが
見え、露天の影の火鉢の中身、
幌が垂れて燃え移り、手を離した、手を離した、
一秒ごとに場面が切り
替わり、繰り返して再生され、
追想する心が遅れてしまう。指は淀むことなくに曲についていくのに、引き戻されそうな心が曲についていかない。ずれかねない、破綻しかねない、とスイランは共鳴する音に意識を向ける。
誤差はまだ僅か、三十六音符にも満たない。たとえれば指揮者と伴奏と合唱がそれぞれに走り始めるより、八小節ほどは前だろうか。
だが、止めるにはもう遅い。弓がもう四小節目を滑っていて、視線が二十小節先を眺めている。
手を離した、家に帰り着いた、靴をどこに
忘れてきた、手を離して、
どこに忘れてきた、
夜ごと夢ごとくるくると、
回転木馬じみた幻影と
ヴァイオリンの弦がからみ、絡まり、ついて
灰色の空にあかい光が射している。
燃えさかる炎の色が眼球に侵食して、楽譜が見えない。
奏でているはずの音もこのてのひらから。残ったのはからの。
声が響く、
父親の声がする、はぐれて
置いてきた、海の碧の瞳を、
水路の上には遠く、鮮やかな金の髪、
否、炎が走っている、
壁が崩れて進めない、
最後に見たのは、
E線を第四ポジションへ滑って、
誰の掌を離した、
空だったから、灰色の子どもの手を取った。その頃から、伴にあって奏でるからこそ鳴ると信じていた。手を離した分だけ、誰かの手を取ろうと思った。
今、勘違いな名前で呼ぶ声をほしがるのも悪くないだろうと思った。
PR