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旅人達に捧ぐのはこの音・旋律・楽譜に魔術、奏で織りなした願いの連なり――馬車に揺られる拍に合わせて口ずさみ、アッシュは手にした小瓶をもてあそぶ。至極透明度が高く、半ばまで水が満ちている硝子の瓶だ。コルクで封じられた瓶の中、水はきらめいていた。
彼の持ちものといえばこれだけで、あとは通り一遍の旅装――食糧や着替えが入った布袋だけだった。軽装は確実に生き延びるためだった。本当はもっと荷物を減らしたい。何も持っていない方が庇護を受けやすく好かれやすい。そう旅の連れに再三提案しているのだが、持っていた方が信用を勝ち取れるとの言によって却下されていた。
「そんなに北が嫌か、アシュレイ・グレイ。ギルベリアはロドリカードと縁があるし、世界を渡り歩く者なら行って損はないところでもあるぞ」
その連れはといえば、見るからに上質なヴァイオリンのケースに手を添えている。撫でるように数度触れて、昨日よりも寒くなったな高度の所為か、と息を吐いた。
「嫌だ、って何度も。ギルベリアは、そりゃチラッとは知ってますし、ちちろっと行ってみたいかも知れないなーとか思ったことありますよ。あるけども、せっかく南の方であたたかーくしてたのに船まで使ってこんなトコまで来て正気っすかスイさん。これから冬ってだけで駄目ですよ、北ってだけで拒否ですよ」
「文章を不明瞭に繋げるな。発音不良を起こしやすくなるだろう」
「知ったこっちゃないですよ」
「言葉を崩すのは構わないよ。だけどね、金葉を託された者として、なっていない言葉を用いるな。正しい文法と正しい言葉を習得してから崩せ、未熟者」
とん、と襟に留めたブローチを突かれた。四年前に許されて以来、身につけている重みが鎖骨の下に食いこむ。首まわりを圧迫される不快感とともに意を感じる。旅で汚れた黄銅の葉は、伝えるひとという証だ。
「うたうお兄さんなんだろう。忘れるなよ、そうあり続けたいんなら、おおよそ正しい共通語で話す癖をつけろと言っているだろう」
「おおよそって、スイさん変に正直ですよねぇ」
奏で歌うことで言葉と意志を伝達する。その働きの古い姿を留めたものは吟遊詩人と呼ばれるが、アッシュ達はうたうお兄さんと自称している。吟遊詩人になりたいのではない。時に王侯貴族を凌ぐ威を持つような、そんなものを追いかけて音楽を学んだわけではない。憧れたのは歌い続け、渡り歩くその姿だけだ。スイも旅する者への憧憬があるからこの道を選んでいる。
「返事は?」
「うん。違った、はい」
「よろしい。……ほら、山道が石畳に変わったね。そろそろギルベリアかな、もう引き返せないよ。これからずっとひとりで行くんなら別だけどさ」
馬車の揺れるリズムと跳ね上がる具合が変わる。規則的になり、寒さで硬くなった土の上を行くよりも穏やかなものになった。車輪の下で、落ちた葉がいい音を立てている。
「あの、まさか、不満つぶしと時間かせぎを。瓶を持たせたのって、もしかしてそのため」
瓶を荷物の中にしまいながら、はたと気づいた。スイを見ると、拍をとるように楽器ケースの表面を指で軽く叩いている。
「今頃気づいたの。小瓶があるだけで気が逸れるなんて、子どもかおまえは」
「うるさいですよ黙れですよ、おれ、もう二十越えてっ」
「成人年齢を軽やかに越えていて、そんなわめき方なのか。昔から変わってないね」
馬車の天幕が風で巻きあがる。ひょう、と吹きこんだ寒さに震えた。
「おりるのか。や、降りるんですかスイさん正気ですか。ほんとに冬越しになりますよ」
「酔狂で来る場所じゃないよ、正気さ。ほら、機嫌なおしなよ。まだ色鮮やかな秋だ、雪は降っていない――降る前に宿を決めよう。それならいいだろう」
「いくないです。半年近くギルベリアにいる計算になりそうなんですけど。今、手持ちは銅と粒ですよ、それとごはん、防寒服、宿代、そんなお金ないっ」
「そうだね。ま、どうにかするさ。……おまえは俺についてくるんだろう?」
「――はーい」
楽都テオドラで声楽を学んでいた頃と同じ返事で手を挙げて、ひとつ年上の演奏家に応えた。
――という記憶は、すでに一ヶ月前のものに分類され、保管されている。鮮明に思い出せる秋の風景は遠く、気づけば雪が腰ほどに積もっていた。二重窓から覗く街は白に覆われていた。

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