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序・無限書庫所蔵資料『からのてのひら』
おそらくは、どちらも私であったのだ。
無名のまま消える、一地方の楽曲屋も。楽曲屋に押しつぶされていなくなった女性も。どちらもが私であって、私でなかったのだろう。
男名を名乗らなくてはならなかった。そのためにソラは霞んだ。
だけども、女名を叫ばずにいられなかった。そのためにソルは薄れた。
なりきれず、ありきれず。
ああ、だけど、もうそんなことは如何でもいい。どうせ、すぐにどちらの名前もついえる。女名であろうと男名であろうと、そんなのもう、知ったことか。ついえてしまうに変わりはないのだから。
血を吹きながら空を見上げる。灰茶の瞳が見る空は、あいにくの曇天で、塀と屋根に狭められていた。細い路地からは遠い先が見えない。
「キミ、死ぬの――?」
否定要素はなかった。ぴくぴく指が動くのは、まったく意思に反している。仰向けに倒れた腹の上には、先ほど仕上げたばかりの譜が乗っていた。血の飛沫が、灰茶色の紙に散る。
「そのままで?」
子どもの声だ。何時だったか本で見た、カイカノンの上等な服を着ている。緋色の絹が朱紅く霞む目に映った。織文も施されている。
「だけどキミ、こんなのはと思うだろう?」
思っている。喉が震えたのなら叫んでいる。こんなのは認めないと。私が殺されるなんて嘘、と。
血を吐きながら子どもを見る。子どもは、私の胸を穿っている刃を引き抜いた。ひゅ、と想像とは違う音がする。
「キミはキミだよ、ついえるなんて許したくないんでしょ?」
臓物はどこかに行ってしまった。応、とこたえようにも空っぽの腹には力が入らない。子どもは朱紅い目で私を見下ろす。こんな際で会うなら案内人か。
「ちがうよ。ひとつのシステムを織ってる者さ」
そんなものは知らない。
「いやいや、知ってるよ。今にも死にそうだから、ついうっかり忘れちゃってるだけだよ。赤目の僕は何でしょう」
己が知る、朱紅の言葉を思いだす。朱紅い瞳はひとつの証であったように思う。それが織り、歌う言葉は思い知らせるためのものだ。滅びるなんて許さない、忘却なんて許さない、このまま自分が死ぬのは間違っている。そんな思いを、知らしめるためのものだ。
それが成り立つ機構の幻想を、現実に反映しうる朱紅の結界師。
「ねえ、キミだってそうだろう」
東部カイカノンの朱紅いおに。帰り来しもの、とまるもの、天を朱紅く染めるもの、歩みは自分のままであるもの。
私は止まった筈の呼吸で、そうだ、と答えた。まだ何もなせていない。まだ田舎の、埋没した誰かさんでしかない。ソラを曲げて名乗ったソルは知られずに、ソルを捨てて生きようとしたソラは報われずに、空の掌しか残せていない。
望みはいつでも、この手からこぼれ落ちていった。願いはいつでも、誰の手にも触れなかった。夢見たものは少しの野望、願った眼差しはあたたかな光。だが、すべて零れて消えた。
こんなことは許せない。
だから、私は少年のようなものの手を取った。空洞の腹に蓋をする。絶えた血流の代わりに魔力を流す。体は既に死んでいる。立ち上がって踏み出した。この身は既に人ではない。朱紅くなった目で世界を見た。そして、そのまま歩き出す。
塗れた譜を背負い、他が眠る季節に歩を進める。新しい譜も重ね、時とともにまた背負う。数えることなんて、もうしていないけれど。
多分、十年か百年かの長さだった。両手で数えられるような、短い話じゃない。
何故って、結末がなかったから。私は終わりようがないのだ。ただ歩いて歩いて、書いて書いて。
はて、と黒い門の前で足を止めた。黒い石と黒い鉄、降り始めた雪で彩られている。透かし模様の向こうには塔も見える。全体の印象は荘厳、の一言だ。
「ついえた、名前は、何だったかしら――」
黒い鐘の音が、問うている気がしてならなかった。……ああ、そう言えばいつからか。この目を誰も怖れなくなった。とりとめなく、そんなふたつの思考が混ざった。
ひとつめの音・
夏が盛りになる前に、暑さに強くない連れの意思を尊重して北上した。とはいうものの、最初はやや南西寄りに進路を取り、一気にあの大国を駆け抜けて、息切れする前に北に方向を転換した――という流れだった。
更に細かくは、東部カイカノンを異層魔術つき街道を駆使して全力疾走、西部から海路でアルフギディルに渡り、北に上ったベルタギディルから乗合馬車で更に北へ、コンギディルまで登った

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