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    もしものために

     もしものため(プリンタ故障とかインク切れとか)に、25枚ここに格納



       さばくのしずく


     目覚まし時計より先に、階下の親機と階段横の子機がリィンリリリィンとけたたましい音を響かせた。
     子機のワンコール遅れが平行カノンのように聞こえ、午後であれば楽しめる音色だったのに、とため息をつきながら起き上がったところでコール音が途切れた。父親がとったのだろう、階段の方でぼそぼそと話す声がする。
     目やにで貼りつきそうになる瞼を開けて、鳴海聖はベッド脇に置いた時計を眺めた。まだ七時にもなっていない。随分非常識な電話だなと目を閉じた。夏休みなのだ、宿題の追いこみを始めて、床に入ったのは確か日付が変わってからだった。それに今日は部活がないし登校日も明後日、昼までだって転がっていられそうな気がする。暑さからの逃避もあってか眠気が容赦なく襲ってくる。
     二度寝の理由づけて自分自身を説得する。八時に起きるのだから二度寝は、などと気にするな。誰にばれて恥をかくというのだ。夏休み即ち寝坊は学生としておかしくない――。
     もう一度寝よう夢に戻ろう、とタオルケットをかけ直し、汗を吸った布団に突っ伏す。
    「聖、起きているか」
     とん、と軽くドアを叩かれた。時間が時間だ、起きていると期待していないのか、聖の返事を待たずにノブが回る。
    「なに、父さん」
    「起きていたのか」
     ドアが薄く開かれる。子機を握りしめた左手が見えた。
    「コールで起こされた。なんだったの、オレに用事?」
    「直純君の」
     思いがけない電話の主に目をしばたたかせた。目やにを拭って立ち上がる。机に置いた携帯電話を見て、電話どころかメールも受信していないことを確かめた。
    「あいつが、朝から? しかも家電?」
     問いながら大股で距離を詰め、ドアを全開にして手を出した。父親はかぶりを振って手を遠ざける。もう電話は切れているらしい。抑揚を抑えた父親の声が告げる。
    「近所の方が代理でね、家まで回覧が回らないから電話で、と。西村のおじいさんが亡くなられたそうだ。――すぐに支度ができるかい? 直純君を頼みたいと」
    「義高さんが。本当?」
     思わず寝起きの眉間の皺を忘れた。閉じようとしていた瞼が大きく開く。
     どうして直接の電話なんだという疑問はのみこんだ。父親がとっくに回答をくれている問いを、改めて尋ねるのは癪だ。二秒の思考で脳は答えに到達する。
     西村直純とは現在クラスが違うし、地区も違い、両親が所属している組合も異なる。
     生徒本人が死んだのならともかく祖父なら中学の連絡網は回らない。たとえ回ったとしても所属クラスだけだったろう。幼少から交流があって親しくても、ただの友人に過ぎないのだと気づいて、聖は父の足許を見つめた。
    「悔しいがね」
     声が上から降って来る。落ちて、こぼれて、聖の頭にぶつかって砕けた。
    「オレ、一昨日会ったんだけど。風鈴をかかげて見せてくれて」
    「そうだね、私も先週お邪魔したよ。お元気そうだったから安心していたのだけれどね、ここしばらく随分と暑い日が続いていたから、その所為だろうと伝えられたが」
     外科医の父はそう言って、汗で滑り落ちそうになった子機を持ち直した。
    「縁者ではないからこんな早くに行くのは遠慮すべきなのだろうが、直純君の様子がどうにも、と仰ってね。聖、行ってやりなさい、きっと寂しがっているだろうから」
    「そんなしゃべり方しないで。義高さんにつくづく似てる。同業者だからってひどい」
     表情の作り方も相似している。眉を和らげ、眼ざしに春めいた温かさをもたせ、口元を僅かに綻ばせていくその手順が、写し取ったように同じだった。
     随分前に人を診るのをやめてしまったが、西村義高は町医者だった。戦前の古い医術書や患者への話し方を、息子が作った縁もあって現在の外科医は学んでいた。
     患者を落ち着かせる語り口、どんなときでも穏やかに聞こえる声音の作り方、柔らかい所作、視線の合わせ方・外し方、その時に及んだ場合の怜悧さと深くとも淡い悔恨の仕方を。医療技術ではない、医者の技術を西村義高から受け取っていた。
    「ああ、支度ね、大丈夫。登校日前だから色々揃ってるし――待って、手伝うんなら制服駄目だ、っていうか通夜だしな。うん、ふつうの黒シャツもすぐ出てくる。箪笥かな。無地だったかは自信ないけど」
     自問しながら箪笥の中身を思い浮かべる。目覚めかけの頭で思いつくまま喋っているのが解り、顔を上げて内容を整理する。
    「無地シャツかどうか解らないけど、どうにか発掘して着替えるよ。制服がクリーニングから戻ってきてるし告別式は問題ない。今日は特に予定もないからいつでも行ける。直純がオレを呼んでいるから、すぐ支度して行くんだよね、父さん」
    「ああ、だがまだ少し早いよ、聖」
    「遅いのも駄目なんじゃない? この時間の電話で、来てくれ、なんでしょう。お友達順位だからしかたないけどさ、あの辺親戚かたまってるって聞いてるから、急いでも直系より遅く着くよ平気平気。ちょっと待ってて、二十分で朝食作るから、米と野菜だけで」
     制止する声に反発し、水が流れ落ちるように捲し立てる。そんなに急かなくても、という声が聞こえたが、無視してドアを閉めた。

     老人が多く住む地域の特性か、西村宅の周辺では日頃から道ばたに、軒先に、店先に数人が固まって談笑する姿がよく見られた。幼少から出入りしていたからか、老人たちに気に入られ、なにくれと世話を焼かれたという心地いい記憶ばかりがある。
     その風景が一変し、駆けつけた親族や近隣の住人が慌ただしく出入りしては支度を調えていた。東の縁側を広く開け放って、見知った背中たちが室を整えている。反射熱でぼやけた視界の中、年月を過ごして黒くなった建材に、大人たちが着ているモノトーンのTシャツや開襟シャツが溶けて紛れる。
     そのうちのひとつが振り返り、聖と父親を認めて声をかけた。すっかり目覚めている相手は目線を合わせて、直純を頼めるかと小首を傾げる。時間を短縮したために身支度が整いきっていない自分が気恥ずかしくて視線をずらすと、洗いすぎて色あせた黒っぽいシャツに汗が染みこんでいるのが見えた。乾いた色との違いが時間経過を思わせる。
     ひそめた声で、あの子、一言もかえしてくれないのよ、と直純の部屋に目をやりながらささやく。
    「いいですけど。どうしたんですか、この辺のやつじゃ駄目なんですか」
     老人の多い地域だったが、子どもがまったくいないわけではなかった。彼を訪ねると三度に一度は他の子どもがいて、聖と遊ぶ約束だから帰ってくれと直純が言う場面に出会った。他の子がいるのならと遠慮しようとすると、直純は袖を引っぱって止めた。なにも家が遠い自分を優先しなくてもいいだろうにと、聖が苦笑することもしばしばだった。
     首を振り、聖くんじゃないと、と支度に戻っていく。
    「やっぱり忙しないね、父さん」
     細かく説明せずに匂わすだけで自分の仕事に戻っていく。余裕のなさを感じて息を吐いた。自宅葬儀でも、そうでなくても、当事者宅は忙しい。気忙しさが感染していく。整えるための息さえも常のそれより短い。
     音を立てぬよう声を張らぬよう、静かにすべてが動き回る。目まぐるしく立ち回っているのに静謐さを感じるのは、どうしても拭えない影の所為だ。慌ただしく駆け回り、声をかけあっているのにその音が上手く聞こえない。通りの方には目頭に手をあてている人も見えたが、泣き声が耳に届かなかった。
     他家の人死には布の向こうで起こったようなものだが、それが知己というだけで緞帳が紗に変じる。それでも隔たっていることには変わりない。なのに、まったく雰囲気に感染してしまっていた。目が暗んで耳まで暗む。
     それで会話はできてしまうのだから不思議だった。父親の返答もおぼろげな光のようで上手く脳に届かないが、同意を示したのだろうと解り、軽く笑んで問いかける。
    「うん、邪魔にならないようにだね。それじゃ、行ってくるけど父さんは? ……そう」
     喪主をみまいに行くらしい父親に投げやりな相槌を打って、また同じことをするのかこの人は、と眉を寄せた。患者の家族を落ち着かせるための表情で父親が微笑みを作る。日頃懇意にしている人が亡くなった家に、なぜ医者の顔を持ちこむんだと歯噛みする。
     父と別れ、荒い歩調で庭を横切っていく。空を見上げる気になどなれない。どうせ雲は欠片ひとつないのだろう。夏の蒼天はまばゆすぎて目に痛い。蒼穹よりもその先の、どの季節にも勝って照らす陽光が目を焼く凶器としか思えなかった。落ちた色濃い影には呑まれそうだと錯覚する。これ以上、蒸して立ちのぼる熱に捕まらないように、極力急いで友人の元へ向かった。
     黒いTシャツの襟元を引き上げて顔を拭い、飛び石の上で立ち止まる。戦前よりは土地が狭くなったと聞いていたが、それでも無闇に広い。丘の上でひしめく住宅地に住む聖には、玄関まで二十歩以上を必要とし、裏に隣家と同じくらいの面積を誇る庭と、畑や小さな竹林を所有する家があるということが不思議だった。根本的になにか違う。そう感じさせる木造の建物に自己との違いを見い出しては、近づいてみたくて足を運んできた。
     広い敷地というだけで、装いを整えなくてはいけない気がしてしまう。髪が少しはねているのに気がついた。些細なはねなど誰も気にしないし、むしろ慌てて駆けつけた風情でいいと思うが、どうにも気になって押さえつけた。
    「直」
     少し声が掠れる。午前中だから声が出にくいと言い訳しそうになって喉に触れる。寝坊なら容易く自分を納得させられるのに、こと人がいるところでは、と舌打ちした。幼なじみの前でも、夏でも、不測の事態下でも、取り繕う癖を手放せなかった。
    「なーお」
     気を取り直しがてら、やっぱり猫を呼んでいるみたいだな、と揶揄する。昔から変わらない、ふたりで遊ぶときの約束だ。角を回る前に声をかける。そうすると猫が呼ばれるように、向こうから友人が現れる、のだが。
    「直純――」
     応えがないので声をやや飛ばす。飛ばしながら角を回り、窓の外に縁台が置かれた彼の部屋に向かう。玄関を通らずこちらに回るのは習慣だが、まだなんの応答もないことがいつもと違った。足が少し急く。
     影の中の縁台に腰掛けているのを見つけた。友人の正面に立ち、頭を掴んで前を向かせると、膝の上で古い硝子風鈴を撫でていた指が止まる。が、こちらが見下ろし、彼の顔を仰向けさせているというのに視線が一向に合わない。直純は伝う汗も別のものも拭わないで静止している。
     知らず指に力が加わったが寸毫も動いてくれなかった。それでも、詳しく説明されないから想像してしまったよりは、幾分かまともそうに見えた。改めて名前を呼ぶ。
    「ちょっとは落ち着いたか直純。おまえさ、近所のオトモダチも大事にしろよ。おばさま方だって心配してたし、家の周り、あいつら遠巻きに見てたぜ」
     こういうときに、なぜ近くの友人を頼れないんだと怒る。リンと鈍く籠もった音の風鈴を抱える直純は、周囲の思いを振り払っているようにしか見えなかった。
    「……いた、んだ、ヒズ」
     直純の意思に関係なく、鼻呼吸がつらくなった体が鼻をすすり上げる。おかげで変なところで音が切れ、返す言葉の選択に手間取った。
    「いたじゃなくて、来た、だ。手伝いは? オレ、手伝いしに来たんだけど、なに、なんか用ある? おまえ、今なにしたらいいか把握してる?」
     脳の処理速度が口の動きに追いついていない。朝からずっと、言葉は出てくるべき順番をことごとく誤り続けていた。寝ぼけているからなんてもう言えない。暑くて脳が死んでいるのか。靄がかかったようなのは、昨晩の疲労がたなびいているからか。硝子風鈴に映る風景のように、歪んでたわんでよく解らない。
     喉が渇く。常らしくなくボンヤリと、見るでもなく眺めるばかりの友人を見ていると妙に喉が渇く。持ってきたハンカチを直純の頬に当てて乱暴に拭う。喉元がちりちりとざわつくような感覚の正体が掴めず、古い木で組まれた屋根を仰いだ。
    「……用?」
    「ご近所中、大わらわっぽい。おまえの家はほとんど反転しそうなくらい気配違うし。地区まで違うオレが来て。主治医じゃないオレの父親が、なんでかおまえの父さん母さんに頭下げに行ったんだけど。つうか働け喪主側。オレらは手伝い、主導はそっち」
     一週間前に会っただけでは異変など気づけるはずもないだろうに、気づけなかったことを悔いて床に顔を伏せている。酷薄な思いでなじろうとして、できず、同意することも選べなかった予想図がこの家で広がっているだろう。鳴海は顔を作り、声を作り、言葉を用意して死人の傍らを守る人の前に立つ。それが常だった。
     ハンカチに染みこんだ水分を唇に移すと少し渇きが和らいだ。ハンカチをしまい、親友の頭頂を数回叩く。
    「朝方、いや夜中? 直はいつだって宿題追いこみ班だろ。……見つけたの、おまえか」
     沈黙こそが回答。夏の陽射しが作る影は短く、しかも庇の幅も狭い。直純は全身すっかり影の中にいるが、聖の体は前半分しか陰りに入ってくれなかった。影と陽向の間に立って、背面はコンクリートのように焼ける、光が照らない天体の面に似て腹は冷える。
     半ばまでしか踏みこまないから、自分の黒服は影に解けず、形をとどめていた。目減りしていく気力を沸き立たせ、日射に負ける間などないぞと、直純の腕を掴んで引き寄せた。
    「持ち上げた足が、腕が、肩が軽かったんだ」
     急に立ち上がったせいか、ぐらりと揺れながら直純は涙を流す。ぶつかりそうになったが、すっと引いて避ける。
    「昨日は羊羹食べるの、ちょっとだけゆっくりだった、気がするんだ」
     更に引くと、直純がたたらを踏んで陽向に出た。拍子で上を見てしまったのか、すぐに目を細めて下を向く。ぱちぱちと瞬きをする音が聞こえるようだ。
     暑いだろう、眩めくだろう、陰に慣れた目に陽射しは辛い。目が驚いて白く染まっていることだろう。だが待つ気はない。地面近くの景色が揺れようと老人を追思して心が揺らごうと、沸いた頭で認める空がぐるぐる回っていようとも、通夜と葬儀は許してくれない。
     とまどう暇も悔いる隙間も用意されない。そのための儀式だ。一瞬たりとて影に取り憑かれないように、寸分の余暇も与えないようにできている。
     そこまで配慮されていても追懐に沈む人間は確かにいる。抜け出すために、誰かが追憶の砂漠に水を与えてやらなければ。
    「きりきり働け、西村直純。忘我も追悔も初七日までとっておけ、てめえのことより義高さんの今後のために回せる限りの脳みそを全速全力回転させろ」
     それが遺族の務めだろう。と、ちょうど通りかかった女性から鍋を奪い取って、
    「オレらがやりますー、お台所忙しいでしょう、さっき七輪も出してましたよね。ええ、お気になさらず。この鍋大きいし、重そうだし、大変でしょう。いいんですよ、任せてください。オレら不慣れで、洗うくらいしかできませんから。はい、お台所を是非。――さて。……わかってくれるね、直純?」
    鍋越しに、上手く微笑む。何度か瞬きをして視界に慣れたばかりの直純が、ようやく自身の涙を拭いて、息だけの笑みを落とした。
    「祖父ちゃんに似てる。笑い方、しゃべり方、ええとイントネーション、声の高低」
     硝子の風鈴が照らし返す。聖の目に歪んだ自分の姿が今度ははっきりと見えていた。
    「そうか?」
    「でも、似てるけど、来てくれたのがヒズでよかった気がしないこともない」
    「いいのか悪いのか、どっちだ。とりあえず鍋洗おうぜ。引き受けたからなぁ」
     さり気なく重たい鍋を直純に持たせて、くるりと体を半回転させる。そのついでに片目を閉じて手招きした。
    「だいたい把握してるけど、一応案内頼むな。水道どっちだっけ」
    「どの水道がいいんだよ」
     古い家が集まったこの近辺には水場が多い。青い水田が広がり、夜には虫と蛙の合唱が絶えなかった記憶がある。年間食べる分のほとんどをまかなえる野菜を育てている家ならば、人がいる分、人の手がある分なおさら水が満ちていた。
    「空いている方だな」
    「なんでさ」
    「邪魔になるだろう。お台所の神、おばさま方以上に手早く確実に立ち回れると?」
    「……無理」
     直純が諸手を挙げて同意する。裏口側を使うと思うから畑のに行こうか、と月遅れの盆を過ぎてもしぶとく生き残っているキュウリの縦植えの向こうを指した。
    「な、あのキュウリ、一昨日のか」
    「うん。まだ出てくるかぁ。まだなるんだろうなぁ……」
     肩を落とす直純について水場に着き、ふと下に目をやった。
     足許に空き缶が転がっている。屈んで拾い、かかげ見た。ラベルは外されていたが間違いなく水羊羹だ。ふちにまだ羊羹のなめらかな小豆色が残っていた。このまま放って置いては蟻に集られるだろうにと、蛇口の片方をひねって水に晒す。直純がもう片方をひねって、鍋の中に水を入れて洗い始めた。ふたりはニンジンやジャガイモの土を取り除くためのタワシを使って汚れを落とし、指を痛めないように留意して濯いでいく。
    「なあ、これ――」
     話に出ていた羊羹だろうか。言いさして口をつぐんだ。また沈まれたらここまでやってきた意味がない。お中元だったのかな、いや、これオレがさし上げたものじゃないか、もしかして、と唇の端が少し上がった。団扇を片手に涼む老爺を思い出しかけ、勢いよく頭を振った。息が不自然に吐き出される。作りきれなかった顔を、すぐ隣の直純に見られたかと暑気の中で冷や汗を流した。
    「ぷへってなにさ、その音」
     右側から、先程よりも笑声の形をとった声が届く。濡れた手は口元にやれないようで、中途半端な高さにある。その甲をタワシでさっと擦り、気にするなとささやいた。お互いぬるい水に手をつっこむ。
     ときおり父親が浮かべる、使い方を間違った微笑みが今の自分の顔に重なる。安心させようとして失敗して、あとでひどく落ちこんでいた背中が眼裏に映る。故人が、弟と先に亡くなった妻の遺影を見つめていたその横顔が追想される。
    「缶は一個だけか。他には?」
    「おれ達、ゼリー食べたから」
     ゼリーもお中元定番商品だな、とからかうと、言うなヒズの家だってそうだろ、と返された。さすが周期性のある食料事情を知っている。
    「缶ゴミってあっちだよな、直」
     水道管に巻きついていたタオルで丁寧に拭いて、近くにある缶の積まれた箱を示す。頷くのを見て取り、箱の前まで行って缶を落とした。そのまま、ぴたりと動けなくなる。
     洗い終わったのか怪訝に思ったのか、直純が近づいてくるのが解る。足音は親しい少年のものだけで、缶の中身を食べたという、つい先日まで一緒だった老人のそれを引き連れてはいない。父親と同じ手法で完成させられる表情を、また作り損なって歪めた。
    「ヒズ……どうした」
     唇がわななく。言葉が上手く繰れない。そうしているうちに、リン、とどこからか外し忘れたらしい風鈴の音が伝わる。耳をくすぐって缶に落ちた。音は雫がこぼれる叫びに似ている、泣きぬれる声に似ている。
     鈴の音が呼び水となり、白い紗布が放たれて、耳が表の方で揚がる死人を送るための声らをとらえはじめた。表は騒がしく、経文を詠む声が木魂のように響いている。友人の声以外が聞こえずまったく静か、などということはない。ざわめきが海鳴りに似て首の後ろから背骨へと満ちていく。蛙の声が戻ってきた。夏休みの終わりを告げるミンミンゼミの声がする。
    「聖……?」
     涼しい風を頬に感じ、いつの間にか閉じていた目を開いた。綺麗に拭ったはずの缶の上、水滴がひとつぶ煌めいていた。


    体裁 A4 40字×40行 252行(原稿用紙換算25枚超)

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