【ツメキリサメ日和】
長靴が、そろそろ休みたい、と言ったときだった。
目的の家まで道は半ばの遙かに手前、休もうにも酒屋の軒さえまだ遠い。
水はもう引いている。足を取ろうとする残留物さえなければ、こんなもの履いていやしない。
名前だけ書かれたノートとドリルを背負っていなかったら、西村香澄は転ぼうが汚れようがかまわない、ともっと軽い靴を選んでいたに違いない。
この辺りは、湧き水だとか地下水だとかを水道水利用している。地表に近いところを通っているだけあって、雨の日に水が地上にせり上がってくることがあった。もちろん、そんなときは農業用水路を流れる極々普通の水だって嵩を上げている。
だから、梅雨と夏場の路上浸水、氾濫は茶飯事のようなものだった。
しかし、疲れることにかわりはなかった。足が止まって、そのまま何かに視線を奪われたとしたって、なんの不思議もありはしない。
用水の方は事前に調整すれば溢れないのだが、地下水ばかりはどうにもならない。前より水が上がってきてるんじゃないか、とよく祖父達が話していた。石で埋めたはずの井戸から、よく水音がしてもいたから。
長靴も地域住民の皆さんも子供会も農協も、川そのものだって、年に何回かはこうなることをとっくに受け容れているし、慣れている。
ああ、だからと言って、と息を見失いかけたが、なんとか立ち直る。
だからと言って、いつも同じものが残留するわけでもないんだな、とつくづく下を見て思った。
いつも通りに泥と少しのゴミ。
「なんだ」
落とした視線は一点に集中したまま、動かせない。なんと言ったらいいのかも解らなかった。香澄の経験上、金縛りはなにがしかのアクションを起こせば解けるものだったが、今回は全く動けすにいた。
実を言うと、金縛りではない。不思議の力で自由を奪われているのではなかった。
行動を奪ったのはたったひとつの、決して長くはないこれまでの人生の中、一度としてお目にかかったことのない物体だった。
全長は両手を広げたくらい。多分、一メートルあるかないかといったところだろう。濡れているせいなのか、やや暗い灰色をしている。
泥を噛んでいてもきらりと光る歯は平たく、上下それぞれに一本だけ生えているように見えた。
顔だと思うところは、四角のブロックび三角形のブロックを重ねるとできそうな気がする。歯が四角の先端(というより、面か)にあって、目が三角形のところについているんじゃないかと思う。
それ、は目を閉ざしている。
顔らしきところの後ろはすーっと斜めに線が延びている。繋がったところに、尻尾のような、突起のような、ダイビングの時に足にはめる何とかのような物がついていた。
びっちびち。
泥の上で、ものすごく元気そうに、それが跳ねた。
よくしなっているわけではない。どちらかといえば鈍重な動きだった。だが、びっちびち、と感じさせる異常なまでの生気があった。
思わずごくりと唾を飲みこむ。
どうにか動いた指がそれに伸びる。
少し、硬い。光り加減は、水族館のイルカショーに似ている。ぶつぶつがある肌が気持ち悪い。

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